Calling you.
「――ああ。明日、一番の便で帰る」
 落ち着いた声音に続いて聞こえるかすかな機械音に、新は顔をしかめた。携帯を耳から離し、画面でちらついている「着信:黒崎壱哉」の文字を睨む。
 おそらく壱哉はPCで仕事をしながら掛けてきている。声が途切れた後のカタカタ鳴る音は、きっとキータッチの音だ。そんなに忙しかったら何もわざわざ時間を割いてまで掛けてくる必要はないと新は何度も言っているのに、それが守られたためしは一度もないし、さらに「お前の声を聞かせないつもりか」と逆ギレされたときには、新は本気で呆れた。
 そんなことを考えている自分も、着信のあった時のまま、椅子に座りっぱなしで単語帳が勝手に閉じないように片方の手で押さえているから、おあいこなのかもしれないが。
 ときおり混じる電子音が事務的な会話を助長させるようで、新はそれを振り払うように掠れた声を絞り出した。
「一番って……何時に出るんだよ」
「早朝5時だ」
 こともなげに出た壱哉の声に、一瞬耳を疑った。
「はぁ!? 何もそんな時間に慌ててこっちに帰って来なくてもいーだろ? 黒埼さん、疲れてるんじゃねぇの?」
 家に数時間居られればマシという生活が、壱哉はここ数週間続いている。だから、明日帰ってきてもどうせ同じ様な状況なのだろうし、それならホテルでゆっくりして貰った方がまだ躰のためにも良い気がした。
「いや、本当は最終の便に乗るはずだったんだが、先方が離してくれなくてな。仕方なく朝一の便を吉岡に取らせた」
 本当は最終の便で。
 新は無意識に反芻していた。
 もしかしたら、あと数時間でここに、新の一人で待っている家に帰って来ていたかもしれなくて。午前様になってようやく帰って来て、帰宅の挨拶もなしに玄関に上がろうとして、寝ずに待っていた新に、からかわれつつも咎められていたかもしれない。
 
 ただいま。
 おかえり。
 
 挨拶をきちんと出来たご褒美に、壱哉の頭を撫でてやろうと手を伸ばして、先に頭をくしゃくしゃに撫でられて。まるで子供扱いの態度に怒ろうとして、壱哉の満面の笑みにすっかり騙されてしまって、新はうやむやの内に廊下を壱哉の後を遅れて歩いていく。壱哉の長い影の頭の部分をわざと軽く踏みながら。

 すっかり慣れてしまった光景が、今は少しだけ遠い。
 電話の向こうで、幻に酔う新を嘲笑うようにキーが乾いた音を立てていた。
「だからって、……疲れてるんだろ? なら、もうちょっとホテルでゆっくり寝てから帰って来た方がいいんじゃねーの?」
「お前が居ないと眠れない」
 溜息交じりの声が耳元で囁かれているようにリアルで、新は思わず携帯を離す。
「な、……ばっかじゃねーの?」
「本当だ。元々眠りは浅いが、お前が傍に居ないと寝付きが悪い」
「……!」
 言葉に詰まって、新は顔を真っ赤にしながら俯いた。電話の向こうの相手には見えないというのに。
「お前を両腕に閉じ込めて、ぬくもりを確かに感じて、お前の頭を撫でて髪に顔を埋めて、お前のにおいを嗅いで、それから」
「……」
「額」
 言われて、新は思わず額を押さえた。熱がある時のように体に震えが走る。
「頬、目蓋、……耳、――耳朶がお前は特に弱いよな?」
「ばっ!」
「……耳朶にいっぱいキスをして、それからお前の柔らかな舌を味わわないと俺は眠れな――」
「何こっ恥ずかしいことをべらべらくっちゃべってるんだよ!」
 新は一瞬あっけにとられて呆然としたが、赤面ものの言葉の数々を、声を限りに遮る。よくもまあ照れずにそんなことを口に出来るなぁと感心する反面、これ以上聞いたら携帯ごと窓の外へ放り投げたい気もする。
「何故だ、眠れないのは本当だぞ?」
 壱哉が喉を震わせて笑っているのが分かる。何を言っても、減らず口を止めてはくれないのだろう。
「……も、その話はいーよ。……なあ、黒崎さん?」
「なんだ」
「今……その、黒崎さんって部屋にひとりっきり、……だよな?」
 少し余裕が出来た途端、余計なことにまで気を回してしまう。ひとりで壱哉に囁かれている分ならまだ気恥ずかしさもひとり分だけだが、他の誰かにその恥ずかしい台詞を聞かれたら、なんて、新の想像だけにとどめておいて欲しい。
「いや? 隣に吉岡が居るが?」
 平然と返してくるあたり、本当に天然だ。
「〜〜〜っ!!!」
 新は声すら出せずにうつむいて、手慰みに触れていた単語帳の一ページをぐしゃぐしゃに丸めてしまったことに気付き、更にうなだれた。
「ああ、すまん、その吉岡に呼ばれた。そろそろ切る、すまんな」
「……いーよ、もう」
 どうせなら、人の居る前で恥ずかしいことを言ったことに対して謝って欲しいと思う。
 吉岡さん、ごめん。
 なぜ自分が謝っているのか分からないまま、新は電話の向こう側の人に必死に詫びていた。