振り向きも、せず。
その日、樋口花壇に立ち寄ったのはたまたまだった。
地元のクロサキファイナンスでちょっとしたトラブルがあり、事後処理の様子を確認しに出向いたついで……だったのだ。
久し振りにあった友人───樋口の、いつになく忙しそうにしている理由を知るのに、そう時間はかからなかった。
「もう大変だよ。明日は母の日だから。最近はカーネーションだけじゃなくって、季節の花をアレンジメントしたものが人気あるから、仕入れするのもひと苦労でさ……」
「───うん、カーネーション、宅急便で送っといたから。……え? なんでそんなこと云うんだよ? ったく、母さんはオレの母さんだろ? 当たり前じゃんか」
新は携帯を通じ、屈託のない笑顔で会話をしている。その相手は、会話の内容から容易に察することができた。
───母の日、か。
樋口の元からそのまま帰宅した壱哉は、リビングにいた新の会話を耳にし、軽く溜息をつく。同時に、新の面影を持つ、疲労の色の濃い女性の姿が脳裏に浮かんだ。
新の、母親。
二年近くも借金取りに追われる生活をしていなければ、相応の美人で通ったであろう彼女とは、一度だけ会ったことがある。新の後見人としての壱哉の存在を疑いもせず、息子をよろしくお願いします、と、夫と共に深々と頭を下げられたのだった。
その姿に、ちくりと胸が痛んだことも思い出す。後見人の立場は決して嘘ではない。だが、新を自分の恋人として手元に置いているという、後ろめたさを抱えているが故に。
「───じゃ、黒崎さん帰ってきたから。仕事頑張れって、父さんにも云っといてくれよな」
ぱちん、と新が携帯を閉じる音で、壱哉はふと我に返った。
「お帰り。今日、早いじゃん。…メシ、ちょっとかかるから、先にお菓子でもつまんどく?」
「いや、コーヒーだけでいい……お母さん、元気そうだったか?」
新の手がスーツを脱がせるに任せつつ、壱哉は訊ねる。
「ん。パートの掛け持ちで大変っぽいけど、逃げ回ってた頃に比べたら、どってことないみたいでさ」
新は手慣れた手つきで、壱哉のスーツをハンガーにかけながら答え、二階の壱哉の寝室へそれを持っていった。
その後ろ姿をぼんやりと見送りつつ、壱哉は深々とソファに腰掛ける。ひとりになった僅かな時間に、自身の母親の記憶が蘇るのを抑え切れなかった。
少女のようなあどけなさを最期まで保ち続けた、美しい女性。
彼女に大事に育てられたことは嘘ではないと、思う。だが、あの男が父親ではなかったら、自分の扱いは確実に変わっていただろう。
それが証拠に、彼女は壱哉の面差しが自分に似ていることを、一度も喜んではくれなかった。むしろ、あの男にまったく似ていないことを嘆いていた。
そうだ。
彼女はいつも、壱哉の背後にあの男の面影を探していた。あの男との接点。あの男との、絆。彼女にとって、壱哉の存在価値はそこにしか、なかった。
───それは、愛情と呼べるものだったのだろうか……。
「……黒崎さん?」
そんな昏い思考に入り込んでいた壱哉を、新の声が引き上げた。
新が僅かに顔をしかめつつ、壱哉の鼻先に人差し指を突き出す。
「イエローカード。…約束、破んなよな」
「……?」
「今、すっげ寂しそうな顔、してた」
しかめっ面から、心配そうな顔に変わった新の表情の変化に、壱哉は思わず苦笑いを浮かべ、静かに新を抱き寄せた。
ちょ……、と云いかけた新だったが、思い直したように壱哉に抱かれるがままになる。
「……なんか、あったんかよ?」
「……………」
猫を抱くように、新の髪に頬をすり寄せながら壱哉はしばらく黙っていた。やがて、何かを思いついたかのような表情を新に向ける。
「……新。明日、付き合って欲しい場所があるんだが……」
「……なあ。本当に良かったのかよ? 花、そんなんで」
壱哉に誘われた翌日。新が連れてこられたのは、自分の故郷。だが、新も知らなかった地区の墓地だった。
ここに来る前に、壱哉は花屋に立ち寄っている。新の大学の合格祝いの薔薇を育てたローズブリーダー・樋口が経営する店で、新とも顔見知りの関係となっていた。
壱哉は菊を何本かまとめただけの質素な花束をオーダーし、樋口に咎められていた。壱哉の横で二人の会話を聞いていた新は、彼の目的が母親の墓参りであることを察したが、口を挟める空気がそこにはなかった。二人の間に割り込めなかったと云うよりも、頑なな壱哉の態度に気圧されたのだ。
壱哉は新の問い掛けに答えず、目的の墓へと歩みを進める。磨かれた灰色の石の間を幾度もすり抜け、奥の方で寂しげに佇む墓の前で、壱哉はつと止まった。
小さく、簡素なそれには“黒崎綾子ノ墓”と刻まれている。それは、彼女がたったひとりでここで眠っていることを意味していた。
墓の周囲には雑草が目立ったが、荒れているというほどでもない。墓自体も小奇麗にされており、誰かが定期的に手を入れているようだった。
───まさか、な。
壱哉は心の中で小さく呟く。あの男に、そんな思いやりがある訳がない。多分、吉岡が密かに気を回していたのだろう。
壱哉は墓の前で屈み込み、手にしていた菊の花束を、そっと置く。しばらくの沈黙の後、自分の後ろで所在なさげに立っている新に話しかけた。
「……もう分かっているだろうが、俺の母さんだ」
「……うん」
壱哉から初めて聞かされる、母親の存在。尋ねたいことはたくさんあったが、新は壱哉の次の言葉を待った。
「……ある金持ちの、愛人…だったんだ。妾の子、ってヤツだな、俺は」
言葉を選んでいるのか、壱哉は途切れ途切れに口を開く。新はただ、黙って聞いていた。
「……優しい、人だった。俺にとって、唯一身内と呼べる人だった。だが……ある意味で、母親じゃなかったんだ」
「……?」
訝しげな新の態度を察し、壱哉は静かに、新の方を振り向く。
「女、だったんだ。ずっと……愛人の立場を貫いて、そして、死んだ」
壱哉の中の、もっとも新しい記憶に残る母───彼女は暗い部屋の中で、一日中電話機を抱え込んでいた。いつかかってくるかも分からない、あの男からの連絡。それだけを待って。求めて───やがて、壱哉の存在を含めたすべての現実を拒絶し続け、海辺の砂の城が崩れ落ちるように、精神を病んでいった。
何かを諦めきったような、奇妙にさっぱりした表情で壱哉は立ち上がり、新と向かい合った。
「この人にとって、俺の存在なんてたかが知れていた。……そういうことだ」
「……ん、な……」
壱哉の重く切ない生い立ちに初めて触れ、新は何をどう云っていいのか分からず口ごもる。一度捨てられたとは云え、両親の愛情を疑ったことのない自分に、何を云える資格があるというのだろう。
「……新」
戸惑いを隠せない新の肩を、壱哉は強く抱き寄せる。まるで、墓に見せ付けるように。
「そんな顔をするな……今は、俺にはお前がいる」
「く、くろさ……!」
場にそぐわない、壱哉の不謹慎な行動を咎めようとした瞬間、新は唇に壱哉の吐息を感じ───そのまま口を塞がれた。
他愛ない、軽いキスだった。しかし、それで済む訳もなく。
「っ……、し、信じらんねー! こんなところで何考えてんだよ!」
新の当然の怒りを、壱哉は微笑んで受け流す。
「そう怒るな。……これで、いいんだ」
「え?」
新の疑問をすり抜けるように、壱哉はくるりと背を向け、行くぞ、と歩き出した。
「ちょ、黒崎さん! ……あ、」
慌てて壱哉を追いかけようとした新だったが、あることを思い出して立ち止まる。そして、上着の内ポケットから一輪の花を取り出した。
───清水くん、ちょっと。
それは花屋を出る際、樋口に小声で呼び止められ、黒崎には内緒だよ、とこっそり渡されていたカーネーションだった。
壱哉が置いた菊の花の上にそれを置き、軽くお辞儀をする。
───あの、すいません。黒崎さんのこと、怒らないで下さい。……今は幸せだって、そう云いたかったんだと、思うんです。
新はそう、声に出さずに墓に語りかけた後、壱哉の背中をゆっくりと追った。
本当は、違うのかも知れない。
壱哉は母親を憎んでいるのか、そうでないのか。今の新に知る術はない。壱哉の告白を考えると、母よりも女として生きる道を選び、不幸な人生で終わった母親への、ささやかな復讐だったと考えられなくもない。
だけど。
今の壱哉が幸せであることには変わりない。だからこそ、自分をここに連れてきてくれたのだろうから。
あの人を、今よりももっと、もっと幸せにできるようになろう。そうすれば、いつかカーネーションの花束を持ってこれるようになるだろうから───
──────?
新は思わず、振り向く。
誰かに微笑みかけられたような、そんな優しい空気を、背後に感じたような気がしたのだ。
だけど、前を歩く壱哉は。
車に戻るまで、振り向こうとは、しなかった。