500万回のキス。



 染みひとつない、マンションの寝室の天井。
 それを見上げることに、だんだん慣れを感じ始めている。傍らで自分を抱き寄せている人の、肌の温もりにも。
 ───いや、そうじゃなくて。
 新はほんの少し、壱哉の首筋に寄り添わせていた顔を上げる。その気配に気がついたように、壱哉は新の顔をのぞき込んだ。
「…なんだ? もう一回、か?」
「ばっか! …違うっての」
 先刻終わったばかりで、まだ躯から甘い余韻は取れていないというのに。
 そのときにされた数々の行為を思い出しそうになり、新はうう、と小さく呻いて回想をごまかした。
「…あの…さ、黒崎さん」
「ん?」
 見つめてくる瞳は優しくて、思わず胸が高鳴ってしまう。
「…その………ごめん」
 その言葉に、壱哉の表情が訝しげなものへと一変した。
「何を謝ることがある? …良かったぞ?」
「だから、そーじゃなくて!」
 どうしてそっちの方に行きたがるかなぁ…と新は呆れたように小さく呟く。それでも、一応気を取り直して。
「オレ…黒崎さんのベンツ、壊したじゃん。まだ、ちゃんと謝ってなかったから…」
 あのとき。あまりの事態にパニックになっていたとは云え、壱哉に対して非常識な言葉を吐き捨てて。その上、呼び出しを受けた際にも、癇癪を起こした子供のような態度を取ってしまった。
 バイトをクビになって、自暴自棄になっていたのは確かだ。だけど───今思い出すと、壱哉に苛立ちをぶつけていただけの自分が恥かしくて、自己嫌悪に陥ってしまう。あの後、壱哉は常識では考えられないほど、自分に譲歩した返済を提案してくれたというのに。
「ほんと、ごめん…修理代、絶対に返すから」
「………」
 壱哉は不思議なものを見るような目で、新を見つめ───そして、何かに気がついたような表情になった。
「…ああ、あれか」
「わ、忘れてたのかよ!?」
「ああ」
 こともなげに返答した壱哉に呆れた瞬間───新の額に、壱哉の手の感触。大きな手が新の前髪を軽くかき上げる。夜気に晒された額に壱哉のキスが落とされた。
「だから、お前も忘れていい。…契約書もないしな」
「……んな訳に、いくかよ」
 髪に壱哉の吐息を感じながら、新は壱哉の胸を軽く押し返して、壱哉の瞳を強く見据えた。
「約束は、約束だろ? ……黒崎さんとこで借りてた金だって、結局チャラにしてもらったのに。これ以上甘えられねーよ」
「いや、あれは……」
 困ったような表情で、壱哉は口を濁す。新は当然、その表情に隠された事実を知る由もなかった。
「…前にも云っただろう? 金のことなんか考えなくていいんだ。お前がこうして、傍にいてくれれば…」
 そう云って、頬を撫ぜてくる手。優しく自分を見つめる目に、新は一瞬、言葉を失った。
 そんな新の隙を、壱哉は見逃さず───そのままもう一度抱いて、話題を逸らそうとした。
 キスをしようと唇を近づけた、その時。
「ダメだ。これだけは、オレ、譲れねーから」
 壱哉の意図を知ってか知らずか、先刻の動揺の消えた新の目が、壱哉を強く見据えていた。
「……新」
「黒崎さん、云ったじゃんか。いつでもいいから返せって。……あんなでっけー会社の社長が、簡単に約束を反故にすんなよな」
「………」
 壱哉は言葉を選ぼうとして───諦めた。新が、時として頑ななほどに一途なのは、よく分かっていたからだ。新のそんな一途さに、自分は魅かれたのだから。
 どうしたものかと新の眼差しから目を逸らした時、ふと、壱哉の脳裏に閃くものがあった。
「……修理代、覚えているか?」
「あ…細かい数字は、明細書を見ないと分かんねーけど……五百万、ぐらい」
「……そうか…」
 口元に手をあてて、考え込むように黙り込む。壱哉のそんな仕草に、新は彼の次の言葉を待つしかなかった。
 しかし、それはほんの僅かの間で、手を口から下ろした壱哉は悪戯っ子のような微笑を浮かべていた。…ように新には思えた。
「じゃあ、支払ってもらうか。……ただし、金じゃない手段で、だ」
「……え?」
 壱哉の予想もしなかった返答に、新はただ困惑する。その表情を愉しみながら、壱哉は次の言葉による新の反応を想像して、笑みを深めた。
「…キス」
 瞬間。新はぽかんとした表情を浮かべた。
 それがあまりにも想像通りだったので、壱哉の口からくく、と低い笑い声が漏れる。
「……は!?」
 壱哉の常識が自分のそれとはかけ離れていることは、もう充分すぎるほど分かっていた。が───それでも、あまりにも想像外の答えに、新は二の句が告げなかった。
「たった今から、キス一回につき…そうだな、一万円の返済…でどうだ? 悪くないだろう?」
「ばっか!」
 顔を真っ赤にした新が、思わず体を起こして怒鳴りつける。しかし、壱哉は動じる風もなく、
「500回なんか、すぐだぞ? …ああ、唇に限らず、お前の躯のどこでもいいことにしておけば、もっと早いな。そうするか」
「な、なに一人で勝手に…! 却下! そんなん、オレは認めねー!」
「債務者の云うことじゃないな」
 赤面したまま、新がぐっと詰まる。壱哉はその表情の変化が楽しくて───可愛くて、仕方なかった。
「…新」
 壱哉は静かに、上半身を起こして新と向かい合う。口元からからかうような微笑みは消え、真剣な表情になる。その真摯な変貌は、新の癇癪を鎮めるだけの効果を持っていた。
「ふざけて云ってる訳じゃない。俺にとっては、金なんかよりもずっと、価値があるんだ…」
 そう云って、新を抱きしめる。自分の胸の隙間から、新がばっか、と呟くのが聞こえた。先刻のような、癇癪に任せて放ったものとは違い、いつもの照れ隠しのそれだった。
「決まり、だな」
 抱きしめられるがままになっていた新が顔を上げて、上目遣いに壱哉を軽く睨む。
「………ヘンな、奴」
 かろうじて出したような反撃を発した唇を、壱哉が塞いだ。
「…最初の一回、だ…」
 そしてまた、ゆっくりと新をベッドの上に押し倒して───額の生え際から頬、顎から首筋へとキスをし、顔のラインをなぞるように、丁寧に唇を下ろしていった。
「ぁ、……ふ、」
 強く、首筋を吸われた新の躯が、ぴくんと軽く、跳ねる。背中に回された壱哉の指先が、つと背骨を撫ぜる感覚にも震え、躯を捩らせた。
「あ、……んっ……あぁ…」
 今までよりも大胆になった壱哉の唇が、新の肌の上を滑り、押し付けられていく。小さく膨らんだ胸の突起にも、何度もキスが重ねられる。その度に新が切なげに躯を揺らし、手元のシーツをぎゅっと掴んだ。
「やっ…やぁ、だ……そんなに、したら……っ」
 鋭敏なその部分を吸われる度に、その音が寝室中に響く。それが恥かしくて、震える手で壱哉の頭を押さえようとするが、力がまるで入らない。そのくせ、臍から下がじんと熱くなってくる感覚に抗えず、腰がねだるように動いてしまう。
 ふと。新の臍の周辺に口付けていた壱哉の顔が上がった。
「あ……くろさき、さん?」
 壱哉の突然の行動に、快感に甘く染まりつつあった新の意識が、少しだけ元に戻る。
「……これだと、返済が終わるのが早すぎるな……」
「……え?」
 壱哉のこのひと言で、新の意識が完全に素に戻った。
「なに、云って……」
「それじゃ、お前も張り合いがないだろう……一回百円に…いや、」
 壱哉が例の悪い微笑みを浮かべつつ、仰向けのまま呆然としている新に顔を近づけた。
「一円にするか。…五百万回なら毎日、お前にいっぱいキスができるだろう?」
「! …っ!」
 とりあえず、罵倒しようと新は口を開いたが───もう何を云っていいのかさっぱり思いつかず、口をぱくぱくさせるしか、なかった。
「返済が終わるまで、離すつもりはないからな」
 意地の悪い笑みとは裏腹に、見つめる目は妙に真っ直ぐで───新は小さく項垂れて、溜息をついた。
 何をどうしたら、こんな馬鹿馬鹿しい提案を真面目に口にできるのか。それこそ、一生かかっても返済なんか───
 新はは、と壱哉の顔を見上げる。壱哉の本当の意図が分かったような、気がした。
 壱哉は多分、恐れているのだ。2人の関係が、いつか終わってしまうことを。
 確かに、互いの気持ちを確かめ合ったあの日、「ずっと一緒にいる」と約束した。だが、その「ずっと」はいつまで有効なのだろうか。
 だから、こうして。
 いくつもの「約束」を交わしておきたいのだ───自分が、ベンツの修理代の返済にこだわったように。
 そう。新もまた、心の何処かで不安に思っていたことだった。恋愛の相手には不自由しないであろう地位と容姿を持つ壱哉が、いつまでも自分のことだけを見てくれる保障は、何処にもないのだから───
 

「……新?」
 自分の顔を見つめたまま黙り込んだ新に、壱哉が訝しげに声をかける。
 どんな顔をしていいのか、多分、新にも分からないのだろう。そんな読み取りづらい表情を浮かべて、
「……黒崎さんって、さ…」
「……?」
 新の口元に小さく浮かんだのは、呆れたような微笑みだった。
「ほーんと、ぽんぽこぴーだよな……」
 新がよく使う意味不明の形容詞に、壱哉は僅かに顔をしかめた。
「またそれか…一体、どういう意味な、」
「いーよ、知らなくて」
 壱哉の言葉を遮り、新は壱哉の肩に手を回して、ぎゅ、と抱き寄せた。
 それは、自分も同じだ。あれほど払わなくていいと云ってくれてる借金に固執してまで、彼の傍にいる必然性を欲していたのだから。
 
 ───今はやっぱり、ちょっぴり不安でも。
 いつか互いに、信じられるようになると、思う。約束なんか、なくても。

 新の態度を肯定と取ったのか、壱哉はふたたび、新の首筋にキスを落とし始める。甘い感触に身を委ねつつ、新はそれはそれとして、少しずつでも修理代を貯金していこうと密かに決心していた。
 ……自分の責任、だから。
 
 
 


 ───本当に、五百万回キスするつもりじゃないだろうな?

 
 新の脳裏をよぎった一抹の不安は、さらに大胆になった壱哉の行為の中に溶けてしまったことは、余談である。