Secret of my heart
「………はぁ」
浴槽の淵に緩く組んだ両腕を乗せる。その中に顎を埋めて、オレは軽く溜息をついた。
だだっ広くて綺麗なバスルームは、昔テレビで見た豪華ホテルのVIPルームのそれみたいで、未だに入る度に萎縮してしまう。あの人が知ったら、きっと笑うんだろうな。
……いい加減、出ないとのぼせるよな。
ちゃんと体も洗ったし、ここから上がるしかないんだけど。でも。
───新
夕食の後片付けが終わってリビングで少しくつろいだ後、部屋に戻ろうとしたオレを、黒崎さんが後ろから緩く、抱きしめてきた。
「ちょ、…吉岡さんが見て」
反射的にもがいたけど、緩いと思っていた腕の力は意外と強くて、離れることができなかった。
「吉岡? 何処に?」
「え……」
先刻まで確かにソファでニュースを見ていたはずの吉岡さんは、何処にもいなかった。
いつの間に…と云いかけたけど、止めた。あの人は、黒崎さんの意図を分かっていて───だから、居ないんだ。
「子猫を捕まえるのも、骨が折れる……今夜はこのまま離さないからな」
耳元でそう囁かれて、一瞬で顔が熱くなった。
黒崎さんの云いたいことなんて、もう、分かってる。…あれから三日経ってるし、そろそろ云い出すだろうなって思っていたから。
だけど。
「…嫌か?」
言葉を濁して俯いているオレに、黒崎さんがそう、尋ねてくる。
その声はなんだか切なくて、すごく我慢させてるような気がして───嫌だなんて、云える訳なかった。黒崎さんのおねだりなんて、いつものことなのに。
「……風呂」
不機嫌に聞こえそうな低い声で、オレは返事を口にする。
「まだ、入ってねぇ…から…」
まだ耳元にある黒崎さんの唇から、かすかに笑うような声が漏れた。
「…ベッドで待ってるぞ?」
「……ん……」
小さく返事を返した時、黒崎さんが素早く、オレの頬に軽くキスをした───
それから多分、30分ぐらい……もっと、かな。
風呂から出たら、後はもう、黒崎さんの寝室に行くだけで。
でも。
今まで、黒崎さんにされた色んなことを後から後から思い出してしまい、オレは思わず顔を鼻の頭まで浴槽の中に沈めてしまった。
ぶくぶく、と吐き出す息が泡になって出てくる。
───あの人は、ちっとも分かってない。
黒崎さんに会う前は普通に女の子が好きで、いつか恋人ができたら、その子とそういうことをするんだと、そう思ってた。男なんだから、当たり前だよな。
だけど、今は。
好きになった人は黒崎さんで───自分が女の子にすると思っていたことを、黒崎さんにされてしまってる。黒崎さんは元からそーゆー趣味だったらしいけど、オレは、やっぱり───心のどっかで、それが悔しいんだ。
女の子みたいにされることが、どんだけ恥かしいか。
なのに、黒崎さんはいっぱいそういうことをするんだ。気持ちいいことだけ、考えて。
「……ぷは」
苦しくなって、お湯から顔を出す。そんで、湯気で霞んでる天井を見上げてみる。
黒崎さん、待ってんだろうな。
先刻の、あったかい腕。頬にキスしてきた時の嬉しそうな声を、ふっと思い出した。
───……嫌じゃ、ないんだ。
黒崎さんを。あんなに頭良くて格好良くて、クロサキグループの社長で、誰だって憧れない訳がないひとを───独り占めできる時間、だから。
黒い髪も。すごく整ってる綺麗な顔も。白い肌に似合わない、筋肉のついた体も。あったかい、腕の中も。
何度もしてくるキスも、体をいっぱい触ってくる手も、オレのことを気持ちよくしようとすることで
───それが、恥かしいんだけど。
───可愛いな、新
何度も、そう云ってくる声が甘くて優しくて。泣きたくなるほど恥かしくても、その声で忘れちまう。そんで、体が気持ちいいことでいっぱいになって───
思わず、オレは浴槽の淵に手をかけて、思い切り立ち上がっていた。
……何考えてんだ、オレ。ああもう、こんなことをうだうだ考えてるぐらいなら、早く出て───
その時。
からん、とバスルームの戸が引かれる音を聞いたのと、ガウン一枚の黒崎さんが現れたのを見たのと、どっちが先なんだろう───
「……な、」
咄嗟に声が出せずに、オレは片膝を浴槽の淵に乗せた格好のまま、固まってしまった。
「…のぼせてた訳じゃなかったみたいだな」
ずかずかとバスルームに入ってきた黒崎さんはそう云って、安心したみたいな顔をした。そして、ガウンが濡れるのも構わずに、猫を抱き上げるみたいに両手でひょいとオレを持ち上げた。
「うわ! …わ!?」
「あまり待たせるな。…待ちきれなくて、どうかなりそうだったぞ」
微かに眉を寄せて、黒崎さんがオレを軽く睨む。
「ばっ…ばか! いきなり入ってきて、何考え……あーもう、とりあえず降ろせよ!」
「ダメだ。もう絶対に離さん。…ここでするか、ベッドに行くか、どっちがいい?」
「………」
逆らえる訳、ないよな。
「………ベッド」
怒ってんのかなぁ。そう思いながら、オレは小声で答える。そしたら黒崎さんの眉の間が緩んで、ふわっと微笑んだ。
「そうか。じゃあ、行こう」
「ま、待てよ! 体ぐらい拭かせろって!」
バスルームの戸を開けかけている黒崎さんを、オレは必死で止める。
「心配するな。俺が拭いてやる」
───今すぐ、お前に触りたい
…その言葉だけ小声で、オレの耳元に囁いてきた。
「ばっ……ぁ、」
ばか、と怒鳴りつけようとした声は、頭にかけられたバスタオルに遮られた。脱衣場で軽く腰を落とした黒崎さんが、オレを膝に乗せて、髪を拭きはじめたんだ。
くしゃくしゃと頭から水滴を追い出していく。その後、バスタオル越しに触れてくる手が、ゆっくりと下へと降りていって───
「あ、ちょっ……そこ、だめっ………」
バスタオルの向こうから、余計なことをしてくる手。腰から這い上がってくる感覚に溶かされそうになって、オレは黒崎さんの手を抑えようとする。だけど、黒崎さんは止めてくれない。喉の奥でくっと笑って、
「だめ、か? …『もっと触って欲しい』と聞こえるぞ?」
「あ、ぁ……やっ……ぅ、」
オレはもう、罵倒する気もなくなって、思わず、黒崎さんの肩にしがみつく。黒崎さんはそんなオレを、抱え込むみたいにしてぎゅって抱きしめて、キスを、してきた。
「ここはやっぱり狭いな……早くベッドへ、行こう?」
唇が離れて、軽い浮遊感。黒崎さんが、またオレを抱き上げて、寝室へ歩き出したんだ。
その間も、オレは黒崎さんに、しがみついたままで───体の下の方がどうにも疼いて、堪えるのに精一杯、だった。
───焦らされた分、たっぷり取り戻してやるからな?
黒崎さんが、少し意地悪く囁いた声に答える余裕も、ない。
ベッドに着くまでの時間を、こんなに長く感じてるなんて。
……ほんと、分かってねーよ。黒崎さん。
こんなことされる度に、頭の中が黒崎さんでいっぱいになって、───好きになりすぎて、怖くなる、なんて。
黒崎さんが可愛いって云ってくれるんなら、女の子みたいでも構わないって気になる。黒崎さんが喜んでくれるんなら、って。
だけど、やっぱり男なのは変わんねーから。
きっと、全部終わって朝起きたら、また恥かしくて、悔しくなったりするんだろうな。ずっと、その繰り返しだったんだから。
それを焦らしてるとか、そんなんで済まされちゃ、たまんねーよ……。
「新? …やっぱり、のぼせてたのか?」
先刻の意地悪な口調とはうって変わった、心配そうな黒崎さんの声で、オレは寝室のドアの前にいることに気がついた。
オレの顔を覗き込んでくる目が少し不安げに、揺れてる。その目で、少しだけ体が鎮まるのを感じた。
……忘れてた。
黒崎さんは、オレが傷つくことを極端に怖がるんだ。あの日、初めて黒崎さんの涙を見た時から。
「気分が悪いなら、止めておくか?」
ここまできて我慢するのなんか、黒崎さんには難しいことじゃんか。無理───しなくていいのに。
オレは小さく首を振って、
「ん…ちょっとぼんやりしただけ。何でもねーよ」
それでも何処か、遠慮がちになった黒崎さんの耳元に顔を向けて、早く入ろ、と囁いた。
───分かんなくて、いいか。
こーゆー人だから。きっとオレの、こんな本当の気持ちなんか云ったら、すげーややこしいこと考えて、悩んじまうんだろうな。
もう、寂しそうな顔なんかして欲しくない。
だから、…いいや。
それに、そう簡単に知られたくないもんな。
あんたが思ってるより、オレがあんたのことを好き、なんて。
「……ん、」
ベッドの上、唇を優しく塞がれる感触を受け止めながら、オレは黒崎さんの背中に手を、回した。