「想 惑」
「お帰り、黒崎さん」
その言葉を横切るように、壱哉が通り過ぎる。
気だるげに玄関からリビングへと向かう後ろ姿を、新は少し驚いたような表情で見やった。
此処に───壱哉のマンションに居つくようになって二ヶ月が過ぎようとしているが、彼のこんな態度は初めてだった。
本当なら、文句のひとつも云っていい場面だろう。しかし新が本当に気になったのはそれではなく、壱哉の、疲労を滲ませたその表情。いつも自信満々で、一事が万事、涼しい顔で行動する壱哉しか見たことのない新にとって、明らかに疲れている彼の姿は、ちょっとした衝撃だった。
「相っ当、疲れてんだなー…」
新はそう、小さくひとりごちる。あれは三日前、数多いクロサキファインナスの支店の中でも特にトラブルが多く、上層部の頭痛の種となっている大阪の支店のひとつが、かなり大きなトラブルを起こしてしまった。
それでも、社長の壱哉が動かなければならないほど、深刻な状況ではなかったのだが───今回の件で彼の堪忍袋の尾が切れてしまい、自らトラブルの処理と、支店そのものを根本から見直すべく乗り出し、吉岡を連れ大阪に出向いたのだ。
留守番の間、頻繁にかかってきた壱哉の電話からは、そんな疲労など窺えもしなかったのだが。
───無理を、していたのだろうか。自分を心配させまいとして。
新は足早にリビングへ向かう。すると、ソファに深く背中を埋め、天井を見上げていた壱哉の視線が新へと向けられた。
「…ああ、」
は、と気がついたような表情の後、壱哉は少し、すまなそうに言葉を続ける。
「遅くなって、すまない…ただいま、新」
「ん…いいよ。それより、吉岡さんは?」
「事後処理を任せてきた。…それでも、今日中には帰ってくるだろう」
反射的に、新が見上げた時計は七時ちょうどを示していた。
「じゃあ、晩メシ一緒には無理かー…夜食に、おにぎりでも作っといた方がいいかな?」
「いいんじゃないか? …ああ、それで飯は?」
期待を込めて訊ねてくる壱哉の表情は、先刻よりも幾分か和らいでおり、新は少し、安堵した。
「ごめん、もうちょっとだけ、時間かかる…その間、コーヒーでも飲む?」
「…そうだな」
ブラックでいい、と告げた壱哉の言葉を受け、新はん、と軽く笑みを返す。そしてリビングを出ようとした新を、あ、と壱哉が漏らした声が引きとめた。
「いや…ちょっと待て、新」
そう云って、壱哉は新に軽く手招きをする。何か用事でも思い出したのかと思いつつ、新はそれに従い彼に近寄った。
その途端。
新は壱哉の手に腕を掴まれる。そのまま壱哉の胸の中に引っ張り込まれ、新は壱哉の膝の上に座る格好で抱きすくめられてしまった。
「んなっ…!」
突然の行為に新は混乱し、離れようとするが、壱哉の両腕は新の両脇にしっかりと回されており、とてもではないが身動きが取れない。自分の迂闊さを呪いつつ、せめてもの抵抗として両足をばたつかせるが、徒労にしかなっていないことは新本人が一番よく分かっていた。
「何すんだよ、もー! 恥ずかしいじゃんか!」
離せよー、と連呼する新の癇癪を、壱哉は笑って受け流す。そして、新の右肩に顎を乗せ、ゆっくりと彼の背にもたれかかった。
「あ…」
壱哉の安堵したような、穏やかな嘆息を聞いてしまったことで、新は抵抗できなくなる。同時に、三日ぶりに触れた彼の温もりに胸の高鳴りを覚えてしまい、顔が赤らんでいく。
そのまま、互いに身じろぎもせず数分間。
「…本当、だな」
「…何?」
不貞腐れたように、新が言葉を返す。怒っている訳ではないのだが、一方的に抱きしめられたままというのは、どうにも手持ち無沙汰で、困る。
「柔らかいものを抱きしめてると、癒される」
「…何だよ、それ?」
「知り合いに聞いた話だ。…その人は、ぬいぐるみを抱いて寝ていたそうだが」
俺はぬいぐるみと同レベルかよ、と小さく呟く新の耳元に、壱哉はこう囁く。
「拗ねるな…俺には、お前以外に抱きたいものがないしな」
「ばっか」
ますます顔を赤らめた新の予想通りの反応が、壱哉には可愛くて───いとおしくて、仕方がない。
大阪での三日間は、正直どうやってこのマンションまで戻ってきたのかも、はっきりと思い出せないぐらいのハードスケジュールだった。そこで蓄積された疲労とストレスが、新の温もりを通して消えていくような気がした。
そこで壱哉はふと、気がつく。
いくら忙しかったとはいえ、疲労はともかく、こうまでストレスが溜まるような事態は初めてだ。
それはつまり───原因は仕事、ではなく。
多分、今抱きしめている、この少年が傍らにいなかったこと───なのだろう。
「なぁ…このまんまじゃメシの支度できねーからさあ、もーいい加減離せよー…」
新のもっともな主張を遠くに感じつつ、このまま彼をソファに押し倒してしまいたい欲望が頭をもたげる。彼の体を思うさま味わって、三日間の空白を埋め尽くしてしまいたい、と。
しかし───
「なぁ、新」
壱哉は静かに、彼に問いかける。ここ数日間、自分の心にこびりついている、わだかまりのようなそれを確認しない限り、どうにも先に進む気にはなれなかった。
「本当に、いいのか? …このまま、東京に引っ越しても」
新がその話を聞いたのは一週間前、壱哉のベッドの中でだった。
猫をあやすように、ただ頬に触れるだけで行為に及ぼうとしない。そんな壱哉のあり得ない態度に不審を抱き、何かあったのかと口を開こうとしたその時に、不意に聞かされたのだ。
『…いい加減、東京に戻らないといけなくなった』
『…ん?』
そのまま、壱哉の言葉の続きを待つ。
『ここを引き払う、ということ…だ。元々、ここにはこんなに長く居る予定じゃなかったからな』
それもそうだ。ここ最近、壱哉と吉岡は昼夜を問わず書斎に篭り、仕事に追われることが多くなってきていた。このマンションの中で対応するよりは、東京に戻った方が、効率は遥かに良いだろう。
それでも、今まで───壱哉がこの街にいた理由は、分かっている。
やっと、このマンションでの生活に慣れた自分に気を遣っているのだ。
あの日。心を通じ合わせ、「ずっと一緒に居る」と壱哉に誓ったあの時。あれ以来、彼は自分の側にいて、呆れるほど大事に、大事にしてくれている。まるで、自分に逃げられることを恐れているかのように。
───そんなこと、ある訳ないのに。
『そっか』
微笑んで、あっさりと新は答える。その返答をどう受け止めたものかと、壱哉が不安げに自分を見つめているのが、分かる。
『東京なんて、数年ぶりだよなー…黒崎さん家って、新宿だっけ?』
『…ああ』
『でっけぇ家なんだろうな。…早く見てみてぇよ』
『…そうでも、ない』
壱哉の表情が、安堵したように少し緩むのを見て取った瞬間───新は彼の胸へと引き寄せられ、強く、抱きしめられた。
『…いいんだ、な?』
『いいも何も…』
なぁ? と続けようした唇は、彼の唇で塞がれてしまい───その後は。
つまり、やっぱり、そういうことに───なった。
「…だから、いいも何も…ないじゃんか?」
余計なことまで思い出してしまい、顔の火照りを持て余しながら、気まずそうに新は俯く。
「黒崎さんが、ずっとここにいる訳じゃないって知ってたし」
それとも、と新は壱哉の方に顔を向ける。
「俺のこと、置いていきたいのかよ?」
「そんなことは…」
ない、と云う代わりに、壱哉は新を抱きしめる腕に力を入れた。
「…ただ、な」
壱哉は一度、そこで言葉を切って、
「…この街は、お前とご両親を繋ぐ、唯一の接点…だろう?」
「………」
新は答えない。ただ、ああ、そういうことか、と納得した。
東京に行くことを承諾した、と思っていたあの夜以降、どういう訳か、壱哉は何処か素直に喜びきれていないような、浮かない顔を新に向けていた。
その理由も問い質せないまま、彼は大阪に行ってしまった訳だが。
───本当、
ほんの少し、胸が熱くなるのを感じて新は泣きたくなる。
この人はなんで、自分なんかのことを、こんなに思ってくれるんだろう。
料理の腕を気に入られているとはいえ、あの忠実な秘書ほど上手い訳でもない。持っているものなんて夢と借金だけで、それも壱哉にとっては負担にしかなっていないはずなのに。
その上、生きてるかどうかも分からないような、自分の両親のことまで気にして。
「…いいんだ」
自分を抱いている壱哉の両腕に、新はそっと、自分の手を添える。
「どっちにしたって、大学行こうと思ったら上京しなきゃなんねーだろ? それがちょっと早くなるだけだって」
「…それは…そうだが」
「黒崎さん、誤解してんだろ。…俺、別にここで親父とお袋を待ってる訳じゃないんだぜ?」
そう云って、新はそ、と壱哉の首筋に頭をもたせかけた。
「フツーに考えて、二人が戻ってくる訳ないじゃん。逃げた意味がねぇよ」
だから、さ…と、困ったように口ごもっている壱哉に向けて、結論にするべく言葉を放った。
「いーから、連れてってくれよ。東京」
ほんの少しの沈黙の後、分かった、と新の耳元に、壱哉は静かに答えを返した。
新の少し茶色がかった、柔らかい髪に軽く頬刷りして、壱哉は思う。
───俺は、間違っているんだろうな。
それを新が心から望むのなら、なんの問題もない。側に、置いておきたい。
しかし。
ひとりの大人として、本当に新のことを思うのなら───新が何を云おうと、多分、連れていくべきでは、ない。
自分が新のために、しなければならないこと。それは、おそらく遠い街の何処かで息を潜めるように生活し、息子の身を案じているだろう新の両親を救い、新をそこに戻してやることなのだ。家族は本来、そうあるべきなのだから。
それができる癖に───わざと、何もしていない。新の笑顔も、強さも脆さも何もかもを、独占していたいがために。連れていってしまえば、今よりも一層、手放せなくなることも分かっていて。
心の奥に宿る、小さな棘が刺さっているような痛み。新と共にいる限り、この痛みはずっと、付きまとうのだろう。
それでも。
どうしても、やっと手に入れたこの腕の中の幸福を、失いたくはなかった───
壱哉の温もりを感じたまま、新は思う。
───ごめんな。サイテーの息子だよな、俺。
両親が戻る可能性はなくとも、連絡がある可能性はゼロじゃない。それが分かっていて、自分はこの街から離れようとしているのだ。
だけど。
今自分を抱きしめている、この人と一緒にいたい。離れて生きていくなんて、もう考えられない。この人は、何があっても絶対に自分を独りぼっちにしない。そう約束してくれた、たった一人の存在なのだから。
この人さえ居てくれれば、他には何もいらない。そう思うほど───
「…寂しかったか?」
自分に寄り添ったまま、黙っている新の態度をどう解釈したのか、壱哉は唐突に訊ねた。
「何が?」
「留守番している間、だ」
新は少し、肩をすくめる。
「別に…たったの三日じゃん」
「なんだ」
不満そうに、壱哉が呟く。俺は寂しかったがな、と少し拗ねた様に溜息をついた。
「…ばっか」
壱哉の求める返事を分かってはいたが、機嫌を取るつもりもなく新は言葉を続ける。
「あんだけしょっちゅう電話かけてきて、いつ寂しいって思えってんだよ?」
おそらく、移動や食事の合間だったのだろうが、その度に壱哉は何度も、新に連絡を寄越してきていた。ほとんど他愛ない話題に終始していたのだが、それでも新の声を聞くだけで満足していたのであろう。
その壱哉の気持ちだけで、新は充分満たされていたのだ。
「声だけじゃ、な」
「…俺は、すっげ、…嬉しかったって」
新としては、壱哉への精一杯の感謝のつもりだった。が。
「こっちの方は、どうにもならんだろう」
そう云って、壱哉は素早く、新の服の下に手を滑り込ませる。
「なっ…おい!」
すっかり油断していたせいで、新は抵抗する隙も与えられなかった。壱哉の指が巧みに、新の肌の上を滑り、弱い部分を探り出していく。壱哉はもう止まる気はなかった。新がどれほど抵抗しようが、弱点はもう、すべて心得ている。
「っ…メシっ…どーすんだよっ…」
「先にお前を食べてからで、いい」
「ばっ…」
ジーンズの上から自身を握り込まれる感触のせいで、新の罵倒は途中で途切れる。首筋にキスが落とされて、新の口から思わず、声が漏れ出てしまう。
「あ…ぅ、…んっ」
壱哉にさんざん触れられ、可愛がられてきた体は否応なく反応し、新の意思とは裏腹に、全身に甘い感覚が広がっていく。
「随分と興奮してるな…やっぱり、寂しかったんじゃ…ない…か」
「こ、のっ…」
いい加減にしろ、とジーンズのファスナーを下ろす壱哉の手を、思いっきりつねってやろうと思った瞬間───
まるで、操り人形の糸が切れたかのように壱哉の手がぱたり、と落ち、体全体で新にぐっともたれかかった。
「…え?」
突然のことに、困惑する新の耳元に届く穏やかな寝息。壱哉は、見事に眠りに落ちていた。
「…馬っ鹿じゃねーの?」
先刻よりも一層、重くのしかかる壱哉の体重にかろうじて耐えつつ、新は小さく毒づく。挨拶も忘れるぐらい疲れていた癖に、不埒なことをしようとするなんて、何を考えているんだか。
溜息をつきつつ、なんとか壱哉の体をソファの上に転がそうとして、体を捩ろうとするが
───あまりにも規則正しい壱哉の寝息のせいで、新はそれ以上動けなくなってしまった。
この体勢では彼の黒髪しか見えないが、きっと、気持ち良さそうに寝ているのだろう。
ふと、新は思い出す。壱哉と共に、初めて過ごした夜のことを。
不意打ちのように彼に酷く犯され、心も体も傷ついて。だけどその果てに気がついてしまった、自分の想いと───壱哉の深い、孤独。
すべてを許してでも、自分にできることはなんでもしたいと思った。彼を、孤独から救うためなら。
そして、今このときが、とりあえず自分にできることなのは間違いなくて───。
新は力の抜けた壱哉の両手を、自分の膝に乗せて指を絡める。分かっているのかいないのか、壱哉の指が反応して、手を握り合う形になった。
「…俺も、馬鹿だよなー…」
苦笑いを浮かべつつ、新はひとりごちる。だけど、自分がひどく幸せな気持ちになっていくのを感じていた───
「ただいま、帰りました」
その言葉と共にリビングに入ってきた吉岡は、安らかな寝息を立てている壱哉の姿と、それとは裏腹に、壱哉にのしかかられた状態で、ずっとトイレを我慢していたとおぼしき新の切羽詰った表情に対面し、絶句することになるのだが───
それは数時間後に起きる、別のお話。